小档案
美川宪一,日本男歌手,本名百瀬由一,1946年5月15日生于日本国长野县诹访市,18岁毕业于东宝芸能学校。
美川 憲一(みかわ けんいち、本名:百瀬 由一(ももせ よしかず)、1946年5月15日 - )は長野県諏訪市出身の演歌歌手、タレント。血液型はA型。身長172.5cm。所属事務所はエービープロモーション。
紅白歌合戦での豪華な衣装が毎年小林幸子ともども話題の的となることで知られる。
小简介
芸名の「美川」は岐阜県を流れる木曽川揖斐川長良川の3つの美しい川にちなむ。美川自身は長野県出身で2歳から東京に住んでおり岐阜とは何の縁もなかったが、デビュー当時のプロダクションの担当者が岐阜出身だったことから岐阜に由来する芸名を付けられた。「川のように息が長く、美しい歌手であるように」という意味が込められている。
1965年、「だけどだけどだけど」で歌手デビュー(当時は男装中性的キャラクターであった)。
1966年、北海道出身で、柳ヶ瀬で流しをしていた宇佐英雄が作詞作曲した「柳ヶ瀬ブルース」が120万枚を売り上げるヒット(原曲は2年前に宇佐によって作られた「長岡ブルース」)。
1968年、「釧路の夜」がヒットし『第19回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。その後も「おんなの朝」「さそり座の女」などのヒット曲を出し7年連続で紅白に出演していたが、突然落選してしまい、これを皮切りに70年代半ばより低迷。ドサ周り(地方営業)による生計を余儀なくされる。
1985年に大麻取締法違反で逮捕。判決は懲役1年6ヶ月、執行猶予3年だった。
大麻事件以降、美川はしばらくテレビ画面から姿を消すこととなる。芸名の表記も「美川けん一」に変えるが、状況が好転することはなかった。
1980年代後半、ものまねブームのさなか、ものまねタレントの第一人者であるコロッケによる美川のマネがうけ、便乗する形で美川本人もオネエ口調で話すようになり人気が奇跡的に復活した(このとき芸名を元の「美川憲一」に戻す)。紅白歌合戦にも17年ぶりに出場し、コロッケとのデュエットで「さそり座の女」を披露した。
それ以降、ヒット曲こそないが、「芸能界のご意見番」などとしてワイドショーやバラエティ番組にしばしば登場し、タレントとしての地位を確保。彼の歌声はもちろん、毒舌やトーク聞きたさにコンサートやディナーショーにも、中高年女性を中心とした集客が見込めるタレントとなった。コロッケとは大変仲が良く、全国でジョイントコンサートを開催したこともある。美川本人も「どん底から自分を復活させてくれたコロッケには感謝している」と発言している。ものまね番組に真似された本人が出演したのは美川が初めてだった。
再ブレイク以降は活動のメインをバラエティ番組にシフト。「オネエキャラセレブキャラ」として活躍。ちあきなおみと共演した金鳥のCMでの「もっと端っこ歩きなさいよ」や、美川がバラエティ番組でたびたび発する「おだまり」が流行語になる。また1991年以降は毎年NHK紅白歌合戦で、小林幸子との派手な衣装対決で毎年話題と瞬間視聴率を集めている。
交友関係は、神田うの、真琴つばさ、うつみ宮土理、加賀まりこ、研ナオコなど、女性タレント女優が多い。デヴィスカルノとは『愛する二人別れる二人』の本番中に喧嘩となり、絶交(敵対関係)していたが、2000年2月1日放送の『火曜特番!! 美川憲一とデヴィ夫人のケンカはダメよ』や2005年7月13日放送の『愛のエプロン』で共演をし、一緒に毛皮のファッションショーを見物したり、その後の囲み会見も行っているなど、現在は仲も修復している模様である。またデヴィ夫人は、美川の借金が原因で起こった裁判の口頭弁論に出席できなかった美川の代わりに証言台に立ったこともある(この裁判はデヴィ夫人の口頭弁論で和解が決定した)。
小林幸子との衣装対決ではライバル関係ではあるが、45年以上前から古賀政男の下でデビュー前後から一緒にレッスン指導を受けていたことで当時から現在まで親交が深く、互いの低迷時の苦労を知り尽くしており、デュエットCDを出したこともある。